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【東方考察】幻想郷の地図を考える(6)

さて妖怪と人間の関係性を変遷を考察していきます。

それにしても、いつになったら「地図を考える」んだとツッコまれそうですが、今は外堀を埋める作業の最中という事で、本当の本題に戻るのはもっと先になると思います。


私は幻想郷の時代区分は大まかに4つに分けられると考えています。

1.「幻と実体の境界」以前(室町以前)
2.「幻と実体の境界」~「博麗大結界」(戦国・安土桃山・江戸・明治最初期)
3.「博麗大結界」以降(明治初期~)
4.「吸血鬼異変~スペルカードルール制定」以降(2000年前後~)


このそれぞれで人間と妖怪とはどのような関係であったかを考えます。
過去の記事にかぶる内容もありますが、今回の記事は今後の考察のベースになる部分なので慎重に考察し、修正や新しいアイディアを加えた総括版となっております。なのでやたら長い^^;


まず1.では、「幻と実体の境界」による幻想郷というのが存在していません。
それでは何をもって幻想郷を規定するのかという話になりますが、これは「幻想郷的な場所」の成立の仕方を考えれば見えてきます。
妖怪とはそもそも人間の怪異への恐れ(或いは怪異そのもの)です。
この妖怪(怪異)を、人間は意識的・物理的な境界をもってムラ(人間のコミュニティ)から除外します。これによって初めて妖怪の跋扈する「幻想郷的な場所」が出現します。
ここで他所から、妖怪退治しますよと言って拝み屋が現れ、幻想郷的な場所に移住します。
これにより「幻想郷的な場所での人間と妖怪の関係」が出来ます。
ムラの人間は幻想郷的な場所を構成する要素ではありますが、幻想郷的な場所の人間ではありません。
つまりこの時点では幻想郷的な場所での人間とはイコール拝み屋を指しています。少し時代が下るとその子孫も含みます。
(なお「拝み屋」は陰陽師、山伏、渡り巫女などを指します。もうちょっといい総称でも良かった気がする)

幻想郷構成①
※本図の「幻想郷」は「幻想郷的な場所」。これには結界が無いので出入りは容易。ムラ周りの境界はムラの人間による意識的なもの。

何故イチイチ「幻想郷的な場所」と書いたかというと、「この様な場所はいたるところに存在した」という『幻想郷風土記』を踏まえての事です。この構図は日本全国にみられた事で、その内の1つが現在の幻想郷に「なった」訳であり、結界以前に「幻想郷」があったと考えるのは不自然です。(『史紀』の紫の項でも同じような事が述べられています)

この時期の人間と妖怪の関係は、「妖怪と人間の戦いが毎夜の様に行われていた」(『風土記』)という記述のままで問題ないと思われます。
わざわざ妖怪を退治する目的をもって辺鄙な場所に移住してきた拝み屋達ですから、それ以外の関係を持つとは考え難く、とにかく妖怪に喧嘩を売ったり妖怪から攻め込まれたりというかなり危なっかしい状態です。


次に2.です。
1.の構図を大きく変えたのが「幻と実体の境界」でした。「幻と実体の境界」「妖怪拡張計画」については(3)で大まかに考察していますが、以前考えることを放棄した内容があるので(^^;)ここで述べておきます。
それは「東方で言うところの幻、実体って何?」という点です。ある意味最も重要なポイントですね。。
とりあえず辞書(wiki)に頼ります。

「幻」
・現実には存在しないのに、あたかも存在したかのように記憶されるもの。
・現実には実在するが、その数が大変少なく希少価値があるとされているもの。
・実際に在った・起こったはずなのに、その存在を二度と確認できないもの。
・計画や立案のみで実現しなかったもの。

「実体」
・哲学用語で、真に実在するもの。実在とは認識主体から独立して客観的に存在すること。
・そのものの本当の姿。実質。正体。

まず「実体」を見てみると、これは「真実在のモノ」と言い換えて、平易な言葉でいえば「夢とか妄想とかじゃなく、誰が見ても真に在るモノ」の事ですね。古典哲学的な「本質」どうのこうのの話になりますが、恐らく神主的には「幻」の裏返しを表す用語としてこれを使っているので形而上学的な話は筋違いかと思います。正体とか実質というのも東方的には違うので、単純に「幻」でない事を指す用語と見るのが自然です。
しかし実体=非幻というだけでは中身がよく分からないので、あとでその特徴を調べてみます。

では問題の「幻」ですが、4項目ありそれぞれに外の世界で、と付け足せば東方でも用いられているような使い方です。しかし、かっちりと嵌る説明とは言い難いかもしれません。

・外の世界で現実には存在しないのに、あたかも存在したかのように記憶されるもの。⇒妖怪、神、神通力、etc
・外の世界で現実に実在するが、その数が大変少なく希少価値があるとされているもの。⇒朱鷺、月の星条旗、ヘマタイト(アイアンローズ)、丸型ポスト、etc
・外の世界で実際に在った・起こったはずなのに、その存在を二度と確認できないもの。⇒東京タワー、天叢雲剣、etc
・外の世界で計画・立案されたが実現しなかったもの。⇒常温核融合、etc

と一応当てはめる事はできているんですが、東方的に妖怪や神などを「現実には存在しない」と言ってしまって良いのかという問題もあり、そもそも只でさえややこしくなっている定義問題に「現実に存在する/しない」という新たな言葉を出すのはナンセンスです。加えて
・外の世界で忘れ去られたもの、存在を否定されたもの⇒神子、etc
・外の世界で使用頻度が減ったもの⇒紙、etc
こういった物が「幻想になったもの」として幻想入りしていますが上の4項目には該当しません。また
・境界が張られた時点で境界の内側にあったもの、境界の内側で生まれたもの(⇒幻想郷の人間、動物、境界内で引き起こされる全てのコト)
・紫が新たに引き入れたもの(普通の実体のものでも幻想郷に入った時点で「幻」のものである)
これらは外せません。
wikiの4つに目を向けると、それぞれこのように言い換えできます。
・「非実在」で「想像の産物」
・「実在」で「数量の小さい」「希少価値がある」
・「実在」で「既に失われ、再現性がない」
・「机上の空論」
ここで東方的でないのは「非実在」「希少価値」の2つです。
東方では「想像の産物」はそれによって「実在」します。また、「数量が小さ」ければ「価値の有無は問わない」ようです。

纏めると、

┌幻┬外の世界で┬想像の産物である物事
│ │     ├数が少ない物事
│ │     ├忘れ去られた物事
│ │     ├存在を否定された物事
│ │     ├使用頻度が減った物
│ │     ├机上の空論たる物事
│ │     └既に失われ、再現性がない物事
│ └「境界」の内側に在る、または新たに入った物事

└実体(非幻)

こうしてみると「幻」になる方法は意外に沢山あるとわかります。
「幻」がはっきりしたところで、「非幻=実体」の特徴を挙げると、
・存在が確かである
・外の人間に必要とされている、よく意識される
・高頻度で起こりうる、失われても再現できる
といったところでしょうか。

話を戻します。
2.から幻想郷の構成要素に「妖怪の賢者」が加わります。ここでの妖怪の賢者は紫一人に限らず、紫に匹敵する力と知恵を持った妖怪全てを指しますが、結局のところ要となったのは紫の能力でしょう。
結界によって「幻想郷的な場所」の1つが妖怪の為の世界、つまり現在の幻想郷に変わりました。(大結界ができるまで「幻想郷」ではなかったとする説も考えられますが、他の幻想郷的な場所と境界のある幻想郷的な場所では様相がまるで違っており区別する意味でもここを「幻想郷」としたい)
1.との大きな違いは妖怪が幻想郷の外との関わりを殆ど断ち、その存在を幻想郷の中だけで完結できるようになった点です。これは幻想郷に妖怪を恐れる人間を内包する事で可能になると思われます。
ここで(3)の考察を振り返りつつ、修正を加えたいと思います。変更点は、妖怪の賢者による保護に関する部分です。
(3)ではこの時期は妖怪の賢者による人間の保護は無いものとして考えました。
しかし妖怪の賢者としては、(5)で少し触れた通り幻想郷を積極的に維持したいはずなので人間が減りすぎるのは困るはずです。
(3)では人間が滅びなかった理由として「強い拝み屋の存在」「低頻度の幻想入り」「妖怪同士の諍い」を挙げましたが、これだけでは賢者自らが幻想郷を守ろうという意思が弱いように感じられます。幻想郷の維持・管理を行う立場の賢者が何もしないのは不自然です。
そこで考えられるのが、妖怪の賢者による「調整」です。

幻想郷構成②

この調整とは、①妖怪の過度の人間襲撃を抑えたりとか、②人間が減りすぎたり弱くなりすぎたりした時に「神隠し」を行って強い人間を増やしたりする事です。
①は立場と実力の強い妖怪にしか出来ませんし、②は結界を抜けられる妖怪にしかできません。そのどちらとも、紫(や、それに匹敵する妖怪)になら可能でしょう。

2.でも人間と妖怪の関係は、1.と基本は変わりません。妖怪が人間を襲い、人間が妖怪を退治する。
そこにそれを調整する賢者と、妖怪を恐れる拝み屋でない人間という要素が加わっただけです。
(※当ブログではこの「その他の人間」の営みをメインテーマにしている訳ですが)


次に3.です。これ以降はまだ一切考察をしていない時代ですので詳しくやりたいと思います。
この時代は1885年、明治に入って暫く経った頃から始まります。
この時代は外の世界で近代化(理性主義による啓蒙)が急速に進められた頃であり、即ち「前近代」が否定された時代でした。妖怪"否定"博士などと呼ばれる井上圓了もこの年旧東京大学哲学科を卒業し著述活動に入っています。
こうした近代化の流れで妖怪が消えゆくなか、遂に第2の結界が張られ「幻想郷」は半完全に隔離されます。
悩ましいのは「博麗大結界」の結界強度です。「幻と実体の境界」は幻⇔実体の論理結界で一見強力に感じられるのですがあまりそういう描写がなく、逆に「博麗大結界」は常識⇔非常識の論理結界で然程強そうではないのにこれによって妖怪内で混乱、闘争が生じるという描写がある。
無論「大結界」ができたあと「境界」が消えた訳ではないので、境界強度を考える際は「幻⇔実体(非幻)」と「幻+非常識⇔実体(非幻)+常識」で比べる必要があるのですが、それでも「常識・非常識」の区別にそれほど付加価値があるのかと勘繰ってしまうところです。
ここではっきりさせておくべきは「常識・非常識」とは誰から見ての事なのかという点です。「外の世界から見て」であると『史紀』では述べられています。さらに言うなら「外の世界の近代人(理性主義者)」の事ではないかと思います。つまり「常識・非常識」とは「理性的・反理性的」と言い換えて問題ないのでは無いか。
総ずれば新結界は「幻+反理性的⇔非幻+理性的」の結界となる訳です。
つまり、結界を超える為の要件は
外の世界なら「幻である、理性的でない(理性で理解されない)存在」。
幻想郷なら「幻でない、理性的な(理性で理解される)存在」。

実例を挙げて考えてみましょう。
例Ⅰ:東風谷早苗(奇跡を起こす人間)、宙に浮ける人間Aさん@外の世界
近代人(理性的な人)からすれば理性で理解はできないので「大結界」を越えられる。
しかしその実在がはっきり認識されていれば「非幻」であり「境界」を越えられない。
外の世界で存在を否定されたり、その他の方法で「幻」になれば幻想入りできる。

例Ⅱ:理性的な(つまり普通の)人間Bさん@外の世界
理性で理解し理解される範疇である。これは「大結界」を越えられない。
仮に忘れ去られるなど「幻」の要件を満たしても「大結界」で弾かれる。
理性的存在から脱却する事は極めて難しい。

例Ⅲ:二ツ岩マミゾウ、河童のCさん@外の世界
理性的に考えれば「見間違い」などで片付けられる。
実体ある外の妖怪は理性的存在ではないので「大結界」を抜けられる。
かつ存在を否定されているので「境界」も抜けられる。

例Ⅳ:天照大神、大国主命、倉稲魂神@外の世界
理性では「社会装置としての神」など別の形で理解される。実在者としての天照は「幻」であると理性は決める。
つまり実在者としての天照は幻想入りできる。しかし外の方が信仰が集まるので、形骸的(「社会装置」)であっても外に留まる方が良いと判断するのではないか。(そもそも神が実体をもつメリットも少ない)

例Ⅴ:八坂神奈子、洩矢諏訪子@外の世界
天照同様、理性では「社会装置としての神」など別の形で理解され、実在者としては幻想入りできる。
しかし信仰が外では集まらないので、天照のように外に留まらない方が良いと判断する。

例Ⅵ:秋静葉、伊吹萃香、霧雨魔理沙@幻想郷
「幻」の存在(幻の世界で実体をもっている存在)であるので「境界」を越えられない。
仮に「幻」でなくなったとすれば(方法は不明)、次に理性で理解される存在になる必要がある。
神や鬼なら社会装置(概念)にならねばならない。人間は魔法を捨てねばならない。
つまり実体をもって外に出られるのは人間だけである。

例Ⅶ:封獣ぬえ@幻想郷、外の世界
理性的には否定される存在がマミゾウを呼びに外に出ている。これは、
ぬえの能力「正体を判らなくする程度の能力」が自存在という境界を曖昧にできると解釈すれば説明できる。
この能力は、自身を外の人間にも理解できる形に変換する事ができる。故に「大結界」を越えるのは容易である。
「幻」から脱却する方が難しそうだが、彼女の能力は幻の世界で幻になるという風にも解釈できる。
「幻の幻」は「実体」である(論理的に2重否定は肯定)。よって「境界」も抜けられる。
一旦外に出れば幻の存在ではなく実体の存在である。
上の「幻」の表のいずれかを満たせば「境界」は越えられる。これは容易である。
「大結界」を越えるには反理性性を外の人間に気づかせれば良いのでここでも彼女の能力が有効に働く。
(総じて考えれば、結界の出入りができる点でぬえ(鵺)は紫級の大妖怪である。「正体を判らなくする程度の能力」は存在を別存在と認識させる境界操作能力である。ただ紫の境界操作よりは対象が限定的かもしれない)

例Ⅷ:(特殊でない)空気、土、物質、物理的な力@幻想郷
幻想郷は日本と陸続きの幻の世界であるので、空気や土は普通の空気や土というのが一般的。つまりもともと「幻⇔非幻」「理性⇔反理性」の区別を持たない。よって自由に出入りできる。
但し魔法の森の「瘴気」など特殊な性質をもつものは「幻」の空気であるので外には出ない。

例Ⅸ:八雲紫@幻想郷
「結界にゆらぎを作れる」。一時的、部分的に結界を無視して出入りできるので結界を越えるのは容易。
ついでにマエリベリー・ハーンも「境界を操る程度」になっているのであれば結界の無効化は可能。

※結界を出る(入る)・出ない(入らない)はその者の自由意志で決定できるものとしています

ここで例Ⅵに注目します。
こうして見たとき、「幻⇔非幻」だけと「幻+反理性⇔非幻+理性」を比べての違いは明白です。
「幻⇔非幻」だけであれば実体をもって外に出られますが、「幻+反理性⇔非幻+理性」になれば外で妖怪が実体を持つことはありません。漠然とした概念として意識的な空間に存在できるのみです。
これこそが妖怪が「大結界」に反発した理由だと考えられます。外に出られなくなって反発したのではなく、外に出ても自存在を認識されないから反発したのです。

さて人間と妖怪の関係の話に戻ります。
「博麗大結界」によって半完全に閉じた3.の幻想郷では、「人間を上手く生かす事」が課題になります。
妖怪や神は人間に恐怖・畏怖される事で存在を維持できる、という点は変わらず、その手っ取り早い方法が人間を襲ったり捕食したり祟り殺したりする事だったのに、それがし難くなった。
一次資料を読む限りでは、人間が捕食されたというような事件は『蓬莱人形』や再思の道・無縁塚・神隠しを除けばありません。これは対象が外来人で、里の人間ではありません。里の人間は脅かされこそすれ殺されることは無い。しかも里を出なければ脅かされもしない。
しかしそれで恐怖・畏怖は維持できるのか?この疑問を解決しなくてはいけません。

ここで解決へのアプローチとして、妖怪の食を考えます。
まず、『史紀』の霊夢の項に曰く「大結界から100年後の妖怪の無気力化は妖怪が人間を簡単に襲えなくなった為(食料係から食糧が提供されるようになった為)起こった」というような説明があります。
これをシンプルに受け取れば
「全ての妖怪の食糧は、食料係が外の世界や再思の道や無縁塚のような場所から人間を獲って分け与えている」
という事になります。
私としては、これは全く納得いきません。紫や藍が(主に藍でしょうけど)、その他の食料係が末端の妖怪にまで人肉を供給している姿は想像し辛いです。
では『史紀』の記述が間違いなのかといえば、勿論そんな事はなくて、
そもそも妖怪の全てが人間の肉体を食糧にしているのではないのです。妖怪の食性は
①何も食べない(少なくとも人間は食べない)(妖精、捨虫・捨食した魔法使い、神、霖之助など)
②人間の恐怖心など、精神を食べる
③人間の肉体を食べつつ他の物も栄養にできる(小分類「妖怪」、妖獣、河童、他多数)
④主に人間の肉体やその一部しか食べない(吸血鬼、鬼など)
という4種類に大別して良さそうです。(酒はカウントしていません。栄養云々ではないので)

①はそのまんま、何も食べないので無視できます。
②なら里から出た人間(里以外の場所、例えば竹林に筍取りにいく人間を『史紀』で確認できる。このように里外に頻繁に赴いて生活の糧にしている人間がある程度存在していると考える)を襲って(食べるわけではないので許される)、それで良しです。
③は基本人間以外を食べたり、②のように人間を脅かしたり、稀に人間を食料係から貰えば大丈夫です。なお、『史紀』を見る限りでは自給自足の習慣はなく人間の作物を盗む事が多いようです(阿求曰く「深刻な問題」)。
④は妖怪の食料係が外から人間を獲ってくるのを待つなり、再思の道などの場所で捕食するなりすればOKです。
その数はというと、③>①②>>④じゃないかと思います。

④のような妖怪は力が強い分、数がかなり少ないです。食物連鎖の頂点のような存在です。
③は人間を食べ、数も多いですが、稀にしか人間を食べないので食料係フル稼働のような事にはならないと考えられます。
②は他と分けて表示しましたが、妖怪なら誰しも存在維持の為には人間を脅かすのは必要な事です。が、栄養としているかといえば微妙で、概念的な問題で必要、という意味が殆どです。①と分けるべきか悩みましたが、例えば妖精は人間から殆ど独立して存在できる「精」で、人間の恐怖心などを必要としませんし、魔法使いも人間に恐れられる事を必要条件にはしていません。そう言う意味で①より妖怪性が大きく、③よりは人間を食べない分弱い、というのが②の分類です。

こうして考えると、人間から恐怖を得られる妖怪というのは②③に限定されるようです。
①は恐怖を得る必要がないので除外して、④はともかく②③は恐怖を得られるじゃないか、どうして無気力化するんだ、となりますが、これは恐怖の量が「人間を捕食する>>>人間を脅かす」であり、脅かす程度の事では十分な妖力を得られないという事だと思います。
そして④の妖怪はまさにThe・無気力になりそうですが、「吸血鬼異変」の時点では吸血鬼は新参、鬼はどこかへ行ってしまっており両方とも「大結界」後の妖怪の体たらくとは無関係、という具合です。
吸血鬼異変のとき吸血鬼の下に付いたのはこの②③であり、②はもともと人間を食べないので力の弱い妖怪ですが③こそが「大結界」の余波を受けて弱体化した妖怪であるといえます。また鬼や吸血鬼以外で④に分類される妖怪も、(居たとすれば)大人しく吸血鬼の軍門に下ったでしょう。

さて、妖怪の食問題は解決しましたが、この状態はある問題を孕んでいます。
妖怪の食問題を考察したのは恐怖・畏怖は維持できるのか?という疑問からで、この答えは「里の外に出る人間に対しては出来る」です。しかし、里を出ない(出る必要のない)人間からは恐怖心を持ってもらえないという問題があります。例えば里の蕎麦屋からすれば、妖怪などたまに来るちょっと物騒な客、あるいは全く関わりのない存在です。これでは「人間を上手く生かす事」に成功しているとは言い難い気がします。もっとより広い人間に、妖怪が恐れられる方法を検討した方が良さそうなものですが、これについては4.にて。

3.時代の関係図を纏めたのがこれです。↓
幻想郷構成③
妖怪は人間を殆ど襲えなくなり人間も退治する必要がなくなり、拝み屋業は軒並み廃業。
3.はどの時代よりも人間と妖怪の関係が希薄な時期であったようです。
その余波を受けて人間の里や妖怪社会には大きな変化があったことでしょう。それについてはまた今度。

4.です。
「大結界」後の妖怪の弱体化の末、「吸血鬼異変」を経て「スペルカードルール」が制定されました。
スペカルールによって「妖怪が人間を襲い、人間は妖怪を退治する」関係を保つことができ、妖怪は弱体化を食い止めることができるようになったようです。
ただこれ、結構付け焼刃の対策で根本的な解決は出来ていないように思います。
「妖怪が人間を襲い、人間は妖怪を退治する」とか「妖怪が異変を起こし、人間が解決する」というのは表面的な関係であり、その背景たる「人間が妖怪を恐れる」という最も基本的な部分が疎かになっている。
どうやらこの表面的で形骸的と評される関係でも妖怪は力を維持できているようなんですが、真の意味で妖怪が力を付けるにはやはり里の人間からの恐れが必要になってくるかと思います。
まあしかし、「恐怖・畏怖の維持」は成されなくとも「幻想郷の維持」が出来るなら妖怪の賢者的にはOKなんだという事でしょうか。
或いは、この「里の人間からの恐れ」はパワーバランス維持の為にあえてキープしてあるのであって、紫が警戒している「人間が集まって妖怪に刃向かう事」に対する切り札にしているのかも。刃向かってきたら強い妖怪引っ張り出して叩きのめして支配強化。おお、こわいこわい

・・・真面目な話、妖怪に刃向かう正しい方法は「存在を完全に忘れ去る」なんですよね。こうなってくるとやはり阿求は妖怪サイドの存在なんだなぁと思いますね。(5)で妖怪行政に「広報は不要」と書きましたが、「広報は阿求」に訂正した方が良さそうですね。

時代区分4.は3.の改良版ですのでさほど考察することはありません。
人間と妖怪の関係はこんな感じです↓
幻想郷構成④
相変わらず人間と妖怪の関係は薄く、スペカ制による補強でなんとかバランスを取っている感じです。
スペカルールが廃れたらどうするんでしょうね。今度こそ根本的解決に乗り出すんでしょうか。


以上が「妖怪と人間の関係の変遷」考察でした。

次回はやっと人間の食の話に戻れそうです。多分。

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鈴屋弥平

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東方考察(妄想)がメインテーマ。
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